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クリヤーヨーガについて

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ヨギーナが京橋のスタジオに移って二年目から、”ヨガする時間”が始まった。
これは、ヨガという実践がしっかりと生活に結びついた私の時間であると共に、
参加する一人一人がヨガを通して自分を見つめ自分で考える時間だった。

その中で私はパタンジャリのヨーガスートラをサンスクリットで一緒に勉強することにした。
このスートラの小さなテキストは、リシケシのシヴァナンダアシュラムの本屋でクリシュナ
ナンダジに霊的に(つまりビビッとして)勧められたののだ。

いつものようにオレンジ色のほおかぶりを被り、にこっと笑っているスワミジ。
クリシュナナンダジは知の聖者と言われ、当時(1995年)インド中世界中からたくさん
の人がダルシャンに来ていた。

スワミジはとても頭のいい方で言葉も難しくわからないことだらけだったが、
その存在は、この世にいてもいなくても今でも時々私に話しかけてくる。

そのスワミジが私にいった。
ヨーガスートラを勉強しなさい。スワーディヤーヤ(自己学習)しなさい、と。

1997年、私は初めて出産した。
息子との最高の出会いの中、もう一人との別れがあった。
頭では理解していたのに、心はそれを受け入れられない。
私は絶望の中だった。

その絶望の闇の中から私を救い出してくれたのが、たった一言のスワミジの言葉だった。
私はそのスワミジの言葉を、その時自分の魂から受け入れることが出来た。

闇を取り除いてくれる、というグルの意味、まさにそれそのものだった。

”自分の身体のすべての部分、手、足、頭は宇宙のそれぞれの星と繋がっていて。
自分ではどうすることもできない。”

自分の力には限界があって、私がそれを思い知った時、はじめて私は大きな大きな
もっともっと大きな力、力そのものと繋がることができる、その力の中にいることが
できる。

それがわかったのは、私が、物事が自分の思い通りにならない、しかも一番なって欲しい
時にならない、それを思い知ったからだ。

それはどうしようもない苦しみとなって、深い悲しみとなって、涙も出なくて、
自分の中の奥深く深くへ沈んでいった。
そこしか他に行くところがなかった。

心が完全に静まった時、私はゆっくりとゆっくりと浮かび上がるように戻ってきた。
新しい自分に生まれ変わって、
苦しみを受け入れることによって心がすっかり浄化されて、
別の自分になって戻って来れた。

私の手足は宇宙の星と繋がっているのだ。
なんて素敵なことなの、そう感じた瞬間に闇はなくなり、私は光の中にいることができる。

クリヤーヨーガの一番はじめ、
タパハ、サンスクリット語で熱、火、苦行、宗教的禁欲を意味する言葉、
それは、”苦しみを受け入れること”
そこからクリヤー、実践のヨガは始まる。

何のために?
ヨガの究極の目的のために。

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見えない世界 2

ラッキーはどんなこなの?
とるなに聞くと、
”1さいでるなにそっくり!”
だという。

私たちにはまったく見えない、るなのスピリチュアルフレンドには名前と形がある。
子供には、大人が見えない物、感じない物がわかるのだ。
そしていつもそっちの世界とこっちを行ったり来たりしている。

しかも見える世界、見えない世界という区別がない。
私たちは大人になって、この見える世界にしか生きていない。
この見える世界だけがこの世のすべてだと思っている。

見えない物はまさにプルシャの世界。
魂の世界だ。
魂は自分で認識できないから、それは心だと思ったり、身体だと思ったり、
または心と身体が混ざっている物だと思ったりしている。

私たちが生きているこの目に見える世界は、プラクリティの世界。
この宇宙の物がすべてプラクリティだ。

私たちの心も身体もプラクリティ。
でも魂はプルシャ。

魂は、心でも身体でもない。
全く別の物。
永遠に変わらないもの。
それは生まれもしないし、死なない。

何かのバランスが崩れてこの宇宙が生まれたけど、それはもとからそこにあった。
だだそれはそこにあった。

それが自分で本当にわかること。
それがヨガ。

スピリチュアル フレンド 3

さて、娘のspiritual friend らしいネンネッタである。
”ネンネッタのうた、ネンネッタのうた、”
としつこいので、ピンと来た、

ガネーシャである。
ガネーシャがうまく言えなくてネンネッタになったのだ。
ガネーシャがspiritual friend になっていたのだ。
神様と交信していたのだ。

ガネーシャは月に笑われて、呪いを掛けてたというのに。
うちのLuna とガネーシャは仲良しだ。

ガネーシャの歌の前にガネーシャのマントラを唱えている。
でも歌を聴かないで、マントラだけぶつくさ唱えて留めてしまう。

ガネーシャは障害を取り除いてくれる。
私達が自分たちの行くべき道に向かって行けるようにしてくれるのだ。

そしてまだ準備の出来てないひとには、障害を与えてくれる。私はこのことをすっかり忘れていたのだ。
毎朝ガネーシャのマントラを、心の中では障害を取り除いてくれることを
おねがいしながら唱えていた。

するとどういうわけか、次から次へと障害がやって来る。
それは身体の痛みだったり、精神的なものだったり、ありとあらゆる問題がやって来る。
これは困った、ガネーシャにお祈りすると障害を取り除いてくれるどころか与えてくれる。
という事に気付いた。

そしてさらに、それをどうしたらとりのぞくことができるか、という力を与えてくれるのだ。
これはすごいことだった。
簡単に生涯が無くなることより、深い学びと、考える知恵、そしてパットひらめく内面からでてくる智慧それを与えてくれる。

ガネーシャのCDはたまたま娘がどこからかみつけてきて、これをかけろと持ってきた。
ガネーシャは勝手に向こうからやって来たのだ。
わたしがそれをcatch してお祈りするだけ。

子供たちがみえていたspiritual friend, 大人にも必要なのだ。

無限

無限について考えていた。
無限、infinite、終わらないもの、限りないもの、永遠なるもの、
漠然としていてそれが何なのかvisionが思い浮かばない。

サンスクリットではアーナンタといって、ヴィシュヌ神のベッドである蛇のことだ。
さすが神様はすごい。蛇をベッドにするのもすごいが、それが無限であるからすごい。

アーナンタ、その無限さは、コブラの生命力の強さみたいなものかもしれない。

以前シバナンダアシュラムでブラマチャリ(ブラフマチャリヤ)だった人から聞いたことがあるが、
コブラというのは、プラーナだけで何万年も生きることが出来るらしい。
土の中でプラーナだけで生きているのだが、外へ出てきてネズミなんか見て捕まえて
食べてしまうと死んでしまうらしい。

それくらい生命力の強い生き物だから、ブジャンガアーサナ(コブラのポーズ)をして、
私達はその生命力を自分の中にとり入れるのだ。

このアーサナで私達も無限の生命力を持った背骨になって座ることが出来るのだ。

無限なるもの、それはこの無限なる宇宙と、その部分である私が同じ大きさである
ということだ。
なぜなら、私がなくなれば、消えて消滅したら、私は宇宙そのものになってしまう。
溶け込んでしまう。
部分が全体の中に溶け込んで一つになってしまう。

これがプールナだ。
完全、全体、満たされていること、

私達はみーんな無限で、完全で、満たされている存在なのだ。

醒麺

餃子の皮を作るとき、チャパティ、うどん、すいとんを作るとき、
小麦粉をこねて寝かしておく。
これを中国語では”醒麺”という。
麺を目覚めさせる、というのだ。

同じことをしているのに日本語とはまるで違う表現である。
小麦粉を寝かす、目覚めさせる。

私は初めてこの言葉を聞いたとき、どきっとした。
寝かす、というのに慣れていたから、この目覚めさせるという言い方はまったく新鮮で、まさにその通りだと思った。

小麦粉をこねてほったらかしておいて、その間にその物の持っている力を最大限に引きだす。

まったく小麦粉が瞑想すると麺やチャパティ、パスタに変身するのだ。
これがただ寝ているだけだったら、別のものになるだろうか。

私だって、寝て起きたら、別の私になってるわけではない。
眠る前と、目が覚めたときが起きた瞬間にくっついて、その間のことはただの夢になっている。

これが睡眠というものだ。
ところが瞑想は違う。

目を開けてまたこの世界に戻ってくると、ほんのちょっとだけ進化した自分と出会える。この世界に戻ってくると、なんて大げさだけど、
スピリチュアルな空間ってあるものなのだ。

混とんとしてるものが少しづつクリアーになっていく。
そして私のチッタ、個別意識が 上に上がっていって、チット、純粋意識と一つになる。

もともと一つのものがまたであって一つに溶けあうだけなのだ。

お昼の12時の瞑想が一番気持ちいい。

wande gurunan

ふと心の中からこんな声が聞こえてきたことが何度かある。

”私とつながっていなさい。”

一度目は、三浦綾子さんの’塩狩峠’を読んだ時で、別に本の中にこの言葉が
あったわけではない。ただ本を読んでるのに、涙が止まらなくなって、この言葉が私の中を
満たして一杯にしてしまった。

考えてみたら、これは聖書に出てくる言葉で、
”よくよくあなたがたにいっておく。私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝である。
  だから私につながっていなさい。”
というようなのがあったではないか。

それがなんで本を読んでいたり、ふとした時に心の中から湧き出てくるのだろうか?
不思議なことだ。

グルとは、自分が本来行くべき道に行くのを助けてくれるものだと思う。
自分で自分の行くべき道を確信して迷わず進んでいけたらいいけど、なかなかそうはいかない。

私達はいつも迷いっぱなしだし、突っ走っている時は、周りなんか見てないし、アハンカーラの
道を行ってるだけ。

でもグル達がそこにいてくれるだけで、私達はまっすぐに自分の本当の道を行くことが出来る。

wande gurunan
グル達にお祈りします。
私がグル達とつながって、宇宙の全体の一部であることを、そして一部が全体であることを。

皆様、今年はお世話になりました。
ヨガを通しての様々な出会い、来年もより一層深まりますように。
素晴らしいお年をお迎え下さい。

kaoru & luna
hariom shantih & love

寒い時のヨガ

寒い朝は、ちょっとでも長くお布団のなかにはいっていたいもの。
それを朝ちょっとだけ早起きして、ヨガをする。

太陽に向かって、スルヤ・ナマスカーラをする。
太陽のエネルギーが自分の中に入ってきて、私のエネルギーと交わって、また外に向かって
あふれて出て行く。

夜中、朝方の授乳で変な姿勢で寝ていて曲がって硬直した腰や背骨が、一気に伸びて、
プラーナが体中を駆け巡る。

寒い時のヨガほど身体が暖まり気持ち良くなるのを実感できるもの。
意識して深ーい呼吸をするだけでも身体が芯からぽかぽかしてくる。

信号を待ってる間、電車の中で、いつでもできるのがプラーナーヤーマ。
鼻から吸って、鼻から吐いて、時にはクンバカで、息を止める。
それだけで温かくなってくるから不思議。

また寒くなったり、眠くなったら、バランスのポーズ。
ブリクシャーサナで木になって、足の親指から大地のエネルギー、手の指先からは太陽、
体中を酸素で満たす。

ウッティタ・ハスタ・パダーングシュターサナで、しっかり手も足も親指まで伸ばして、
汗が出てくるほど熱くなる。

寒い時のヨガほど気持ちいいものはない。

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ラーマクリシュナ

新しいスタジオの床がきれいになった時、
まず、ラーマクリシュナの写真を飾った。

それは、去年インドのマイソールのラーマクリシュナミッションで見つけたものだ。

ただの写真なのに、スタジオの正面にその写真を置いただけで、
そこの空間が変わった。

もともとこのスタジオは、下は、俗世界の京橋だけど、中に入ると、何だかアシュラムのような
雰囲気がある。
そこに、聖者が置かれると、こんなに神聖なヴァイブレーションが広がっていくとは、驚いた。

私とラーマクリシュナの最初の出会いは、インドのデリーのパハールガンジーの近くにある、
ラーマクリシュナミッションだった。

私はいつもデリーでパハールガンジーに滞在している。
そしてどこかに出かけて、またサイクルリキシャーで戻ってくる時、いつも、
”ラーマクリシュナミッションの方から入って。”
とひとこというと、リキシャーワーラーに遠回りをされない。

ある時、ホテルに帰る時、リキシャーで何となくラーマクリシュナミッションで降りようと思った。
そして初めて中に入った。

先ず目に飛び込んだのが、ヴィベカナンダジーの顔と姿、そして、
”ヴィベカナンダを知らずして、インドは語れない。”
という、ガンジーの言葉だった。

私はショックだった。
何度もインドに来てるのに、何だかよくわからないことがある。

それでもそのまま日本に帰ってきて、よくわからないままほっておいた。

大阪に引っ越してきて、ある日カッパ横丁の古本屋を歩いていると、
ある本が目に飛び込んだ。

賛美歌の一節から始まるその本。
それがラーマクリシュナのことが書かれた本だった。

ラーマクリシュナがそばにいてくれるだけで、温かいシャンティな気持ちになれる。
そして何だか、心が洗われるように清らかになって、気持ち良くなってくる。

写真だけでそのパワーを伝えることができるのは、やっぱり聖者だからだろう。

ずっとYOGHINAを見守っていて欲しい。

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sanae (11/10 11:21) 編集・削除

新しいスタジオ、私もすごく好きです。
「練習できるとこがそこにある」っていうだけで、
気持ちがスゴク楽になって、楽しみになりました^^

moondayの日にヨガの話はもちろん、インドの話も
ききたいな。

ブジャンガアーサナ

出産後、一番最初にやったのがブジャンガアーサナ、コブラのポーズだった。
産後、一ヶ月はヨガはやってはいけないと、友永淳子先生に言われていたので、その間はじっと
しているつもりだった。

前の出産の時、産んだ次の日からベッドの上で簡単なヨガをやった。
背骨をねじったり伸ばしたり、たいしたことはやってないのに、身体はよくなるどころかくたくたに
なった。

その時は、妊娠中も途中でアーサナをやめ、プラーナーヤーマと瞑想だけ続けていた。
そのせいもあって、急に身体を動かしたのが悪かった。

今回は、しばらく我慢しようと思っていたが、気がつくと足の指から少しづつ動かし始め、
1週間後には、しっかり背骨を反って、コブラになっていた。

たぶん、妊娠中にうつ伏せになれなかったこと、思いっきり背骨を反らせなかったこと、
そのために、身体が勝手にこのポーズをやっていた。

以前、ヨガをやってるある人が、
自分のやっているアーサナは、inside coming だ、といっていた。
自分の中から出てきて、やりたいものを自然にやっている、それがアーサナだ、と。

それは、自分の身体が自分にとって一番必要なアーサナを知っているから、
その時に何をすればいいか自分が一番よくわかっているということだ。

私の場合も、産後身体はとても硬く疲労していたが、自分がやりたい時にやったアーサナは、
とても心地よく、身体が軽くなった。

そして何よりも、プラーナだけをエネルギーに何年も生きることができるといわれているコブラの
生命力を自分の中に取り入れることが出来た。

心臓と魂 2

体温が心臓に届くと拍動が始まる。
エネルギーが完全に使われる状態だと、そのエネルギーは臓器によって2倍に活用される。
心臓の鼓動は、36x2倍で72,つまり1分間に72回、どきんどきんいって、血液循環が始まる。

血液循環が始まると、肉体、身体が活動を始める。
人間が大地を踏みしめて歩くことにより、足の裏に流れる血管を押したり離したりして、足の底に溜まりがちな血液の循環を促進する。
そして、心臓が収縮し送りだした血液を、また心臓に送り返している。

ヨガ(アーサナ)をすることによって、普段意識していなかった身体の部分、足の指や足の裏、ひざの裏、大腿部の中、いろんな臓器、筋肉、筋など、さまざまなところに意識を向けたり、意識して動かしたりするようになる。

そして普段よく使ってるところ、頭や脳はリラックスさせてお休みさせる。

呼吸を意識して身体を動かす。呼吸とからだが一つになると、プラーナがバランスよく身体の中を流れていく。

そんな状態の時、心臓(フリダヤム)の中に住んでいる魂(アートマン)は、住み心地がいいな、と感じるのかもしれない。

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